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宮沢賢治掲示板 Q&A集(4)
   注文の多い料理店での犬の値段
注文の多い料理店での疑問
0 名前 : 金田中学校国語科 投稿日 : 2004年11月10日(水) 07時50分00秒
こんにちは。実は、宮沢賢治の作品について疑問点があり、突然失礼とは思いましたが、どなたかご存じではないかと思い思い切って投稿してみました。
疑問点は宮沢賢治の作品「注文の多い料理店」の中の一節についてです。
この作品中に二人の紳士が犬の値段について語り合う場面があります。一人の紳士は2400円の損害。もう一人は2800円の損害だとういくだりです。
生徒から、今の価格にしてどのくらいなのかという質問が出て、私たちも調べているうちに、ますます疑問に思い、もしやここならどなたかごぞんじではないかと思って投稿した次第です。
ITで調べたところ、当時の総理大臣の月収が1000円とのこと。また、作品中に山鳥の値段が10円とありますが、これも当時牛肉100g21銭というところまで調べて、ますます疑問に思うようになりました。
この作品に出てくる、犬・山鳥の値段は当時の実勢価格を反映しているのか?それとも単に宮沢賢治が創作として話を大げさにしているのか。あるいはわたしたちが調べた作品が書かれた当時の物品価格が間違っているのか?
当然の質問なのですが、行き詰まっています。もしどなたか、おわかりになりましたご教示ください。
よろしくお願い申し上げます。
1 名前 : いずみ 投稿日 : 2004年11月13日(土) 22時42分01秒
当時(大正末期)家1軒が1000円で建てられました。現在の価格では2千万円以上でしょう。
従ってどんなに優秀な猟犬でも2000円以上ということはないと思います。
 都会(東京)から来た金持ちが金に飽かせて「英国風」のスタイルでピカピカの鉄砲を持ち、猟犬を連れた他に案内の地元猟師を雇って山にやってきた。
自然に対する畏怖の気持ちもなく、動物の命など考えもせずに勝手にやってきた猟師たち。
 賢治はそのような身勝手な人間の行動に対する警鐘としてこの童話を書いたとも思われます。
ですから犬の金額は実勢価格ではなく、「金さえ出せば」という心を表現するためにオーバーに書いたものでしょう。
 当時の色々な価格については、朝日新聞社「値段の明治・大正・昭和 風俗史」が参考になると思います。図書館には置いてあるはずですのでご覧になってはいかがでしょうか。
2 名前 : ラリックス 投稿日 : 2004年11月16日(火) 12時45分24秒
書き込み失礼致します。
私も宮沢文学の中には沢山の疑問点がありまして、ただそれは賢治自身の意図であって矛盾ではないと解釈しております。
この金額につきましては私も以前から不思議でしたので、興味深く回答をお待ちしていたのですが、
回答が少ないということはまだ学術的に結論が出ていないということなのでしょうか。
私はこの箇所については次のような仮説を立てておりました。
1、イーハトーブの中では、動物の価値が飛躍的にアップする。
2、猟犬=その人の命。その人のそれまでの人生の価値を表している。
3、この人たちは東京から来ているので、イーハトーブに入ったことにより錯乱している。
4、未来の人に読んでもらうため、物価を予め上昇させている。などです。
もし学術的に結論が出ていないのだとしたら、生徒さんたちで色々な意見を出し合ってみては如何でしょうか。
きっと素晴らしい教育になるかと思いますが。
乱文大変失礼しました。個人的意見なので必要のないときは削除してください。
3 名前 : ネリ 投稿日 : 2004年11月17日(水) 10時41分02秒
この問題は、盲点だったようです。これまでの研究では、(賢治の本作執筆)当時の猟犬の値段を調査したものはなかったように思います。
職業としての狩猟以外に課せられる狩猟税の額から、青年紳士の階層について言及したものはありましたが。
 すこし、ネット上で調べてみましたら、以下のような新聞記事の引用がありました。
  ○毎日新聞 明治19年6月24日
   3000ドルの名犬が来日
    川村純義(すみよし)海軍卿当時、米国人より購入、猟犬138ドル。
    徳川武昭、英国より購入、165ドル
    旧工部省お雇い教師ドイツ人、本国より1200ドル
    英国陸軍佐官、所有、3000ドル

  ドルの値段比較となると難しいが、明治14、5年頃で、だいたい1円=1ドルの換算レートだったと思う。とても高価な犬というのがおわかりいただけよう。
 以上は、http://hansichi.hp.infoseek.co.jp/contents/kame02.html
のものです。
 意外と、賢治の示した猟犬の値段は、現実に根ざしたものだったのかも、と思えてきました。
 もう少し調べて、また報告します。(金田中学校の生徒さん達には間に合わないかもしれませんがすみません)
4 名前 : いずみ 投稿日 : 2004年11月19日(金) 21時00分39秒
ネリさんの投稿を読んでウームとうなりました。
以前にも賢治作品にさりげなく書かれていた事柄が、実は事実に基づいて周到に書かれていた事を知った体験が何度かありました。
 今回の件も、その体験からすればキチンと資料を調べて確認すべきだったのに、前の体験を忘れて簡単に自分のレベルで判断してしまいました。賢治を自分レベルに引き下げて考えてしまった事を深く後悔しております。
 今後、賢治作品を読む際の強烈な戒めとなりました。ネリさんに感謝致します。
5 名前 : ラリックス 投稿日 : 2004年11月21日(日) 10時51分07秒
度々の書き込み失礼いたします。
ネリさん、いずみさんありがとうございます。
賢治作品の内容で混沌としていた部分が、研究によってその意図が明白になる事実を、リアルタイムで見ているようです。大変感動いたしました。
今後も興味深く拝見したいと存じます。
10 名前 : ネリ 投稿日 : 2004年12月01日(水) 15時10分04秒
  今頃になりましたが、宿題が残っていたので、書き込みます。
  大正11年1月6日「岩手日報」に面白い記事がありました。「注文の多い料理店」の目次掲載日付「(一九二一、一一、一〇)」よりは遅れますが、興味深い内容です。題名は「猟犬の話」、「盛岡高等農林学校 古猟士」の談話筆記のようです。「『銃猟家の手腕は其飼養する犬の技能にて判明す』と云ふことが猟界一般の標語である」と語りはじめ、「銃猟家と猟犬の関係は密接で現代では或る特種の猟法以外犬なくして銃猟が出来ぬと云ってもよい程である」としたあとで、「今日の如く各種階級の人士を〔通じ〕銃猟の盛んなる時代に於ては猟犬の需要が益々多く各自競ふて良犬の飼育に努め其の価格の如き一頭三千円の五千円のと云っても更に驚く者も無いといふ有様である。」と述べてます。
 記事の流れからすると「一頭三千円の五千円の」したのは、独逸セッターやポインターの血統のよい成犬、しかも輸入されたもの、ですが、おおかたの人たちも、このくらいはすると思っていたでしょう。
 とすれば、「注文の多い料理店」の青年紳士たちが失った犬の「二千四百円」「二千八百円」という価格は、同時代の読者には現実味をもって受け止められたに違いない。すこしも誇張された額ではなかった訳です。
 とはいえ、非常に高価なことには変わりなく、国内で繁殖された子犬(生後70日前後)ならば、ドイツポインター種は7〜80円、セッター種は400〜500円で頒布されていました。これは、「銃猟界」という雑誌の大正10年夏から秋の広告に載っていた値段です。これは、廉価な方だと思います。
 いまのところここまでわかりましたので、報告まで。
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   2 「雨ニモマケズ」で「行ッテ北ニ…」
「雨ニモマケズ」で「行ッテ北ニ…」
0 名前 : りかる 投稿日 : 2002年05月10日(金) 00時04分16秒
こんばんは。
突然ですが、雨ニモマケズの詩について伺いたい事があります。
実は、わたくしの子供が通っている保育園では、
一番上のクラスになると雨ニモマケズの詩を暗唱出来るようにしているのですが、
わたくしが昔覚えた内容と詩の一部が違っている事に気が付きました。

南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイゝトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

・・・・の、北ニの前に行ッテと入っているのです。
つまり
行ッテ北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
・・・になっている事になります。
インターネットでいくつか調べたりしましたが、行ッテが前に付いているものは見つけられませんでした。
保育園に申しました所、宮澤賢治記念館に問い合せ、原書?ではそう解釈も出来る。どちらでもいいです。
・・・という返事だったそうですが、
世間一般の賢治詩集でも行ッテが北の前に付いている事は無いと思われます。

保育園では今まで通り行ッテを前に付けて教えていくそうです。
些細な事ではありますが、何だかすっきりしません。
暗唱が目的なので非常に気になります。
どちらでもいいという事は無いと思うのです。

某賢治サイトで質問したところ、こちらで聞いてみたらどうかとアドバイスを受けました。
校本全集の写真だと、56ページの「コハガラナクテモイゝトイヒ」の左上に「行ッテ」という文字があり、
57ページは冒頭から、「北ニケンクワヤソショウガアレバ」で始まっている為、
56ページの最後をこのフレーズの頭について解釈したのでしょうか?
・・・と教えていただきましたが・・・・。

ご意見を下さい。
よろしくお願いします。
1 名前 : はっくにー 投稿日 : 2002年05月10日(金) 08時00分44秒

解釈等の経緯について詳しいことはわかりませんが、
「雨ニモマケズ」本文は鉛筆書きのところ、件の「行ツテ」は
赤鉛筆書きです(因みに「11、3、」は青鉛筆書き)。 
 鉛筆書きの本文とは峻別するのがよい、という判断に賛成です。
このあたりの対句調のリズムからしてもその方がよいという
判断もあるのではないでしょうか。
 断定できない点はお許し下さい。ご参考までに。
2 名前 : ネリ 投稿日 : 2002年05月12日(日) 09時36分29秒
「行ツテ」が、「北ニケンクワヤ」の前にある「雨ニモマケズ」はじめてみました。
 もう少し前から読めば、
  東ニ…/行ツテ看病…
  西ニ…/行ツテソノ稲ノ…
  南ニ…/行ツテコハガラナクテモ…
 と続いて、「北ニ…」となっていますから、対句的に構成されているこの書き付けでは、「行ツテ」があるとすれば、「北ニ」の前ではなく、後ろになるはずです。
 また、「行ツテ」は、その現場に行ってというニュアンスに読めます。「行ツテ北ニ」だと、あてなく歩いているときに偶然喧嘩や訴訟に出会ったら」というようになりませんか。そうだと、北だけが、残りの東西南と異なります。
 ところが、手帳の原文には「北ニ」をうけるような「行ツテ」がありません。前ページ末に、「行ツテ」とあったので、統一を考えて「行ツテ北ニ…」としてしまったのでしょうか。
ちなみに、新校本全集では、「北ニ」の前ページ末の「行ツテ」を、「戯書」と解釈しています。ハックニーさんの言うように、赤鉛筆で書いているので、後の記入と見られます。また、「南ニ」をうける「行ツテ」(鉛筆書き)を再度書いてみたように読めるから「戯書」と判断しています。
 小倉豊文さんも『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』で、「朱鉛筆で落書」と解釈しています。
 ごたごたしましたが、こんな風にも考えられませんか。
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  3 イーハトーヴォ?イーハトーブ?
イーハトーヴォ?イーハトーブ?
0 名前 : 山田 洋子 投稿日 : 2002年07月08日(月) 21時06分27秒

イーハトーヴォの語源を教えてください。
「イーハトーヴォ」と「イーハトーブ」、どちらがより賢治の理想の場所にふさわしい表現なのでしょうか?
私は、”ヴォ”にこだわってしまうのですが。
1 名前 : はっくにー 投稿日 : 2002年07月09日(火) 16時03分21秒
語源は「岩手」(旧かな表記=いはて)だそうです。
「これをエスペラント語風にした」という話を聞きますが、
どのようにエスペラント語風なのかは私はわかりません。
末尾は「ブ」「ボ」「ヴォ」と変化ありますが、
一方、その前部を「トーブ」とのばすのと
のばさないで「トブ」というのとがありますね。
2 名前 : why@管理人 投稿日 : 2002年07月11日(木) 04時26分05秒
このホームページのロゴには
Iihatobu
と書いてあります。
この綴りの由来も不明です。
ご存じの方は教えてください。
3 名前 : アンクロアラヴ 投稿日 : 2002年07月12日(金) 14時34分09秒
こんにちは。
「Iihatobu」の「由来」は、おそらく「イーハトーブ」を
単にローマ字表記しただけなのだと推測しますが、じつは
私は以前からこれが気になっていました。

賢治自身の表記では、「ポラーノの広場のうた」の自筆楽譜
に、「"IHATOV" FARMER'S SONG」(最初のIの上には点が2つ)
と記されているので、最後の「ブ」を「bu」と綴るのは、
やはり間違いというか、不適切なのではないでしょうか。

それから、はっくにーさんのレスの「どのようにエスペラント
語風なのか」ということに関してですが、エスペラント語では、
・名詞の最後の母音は'o'である
・単語の最後から二番目の音節にアクセントを置いて長く延ばす
という規則があります。
ですから、例えば「ポラン(Polan)」→「ポラーノ(Polano)」
という変形は、エスペラント語風です。(「ポラーノの広場」
の登場人物の名前も、みんなエスペラント語風になっています。)
同様に、「イーハトヴ(Ihatov)」→「イーハトーヴォ(Ihatovo)」
と賢治が変形したとすれば、これもエスペラント語風です。

最初の山田さんのご質問の、「ヴ」と「ヴォ」のどちらが
賢治の理想の場所にふさわしいかというのは、私にはよく
わかりません。
しかし、賢治が晩年に「ポランの広場」を「ポラーノの広場」
に書き直したのは、エスペラント語の響きを取り入れて、
一種のユートピア的な雰囲気を表現したかったのかと思い
ます。
その意味では強いて言えば、エスペラントの規則に従った
「イーハトーヴォ」の方が、そのような賢治の志向を
より反映していると考えることができるかもしれません。
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   4 「私が先生になったら」という作品
「私が先生になったら」という作品
0 名前 : ヒカル 投稿日 : 2002年11月21日(木) 12時43分15秒
はじめまして
この作品(?)の出展を探しています
宮澤賢治作と教えられたのですが・・・
いくら探してもわかりません
どなたかご存知の方がおられたら教えてください
よろしくお願いいたします

私が先生になったら

私が先生になったとき 自分が真理から目をそむけていて
どうして子どもたちに ほんとうのことが 語れるか

私が先生になったとき 自分が未来から目をそむけていて
どうして子どもたちに ほんとうのことが 語れるか

私が先生になったとき 自分が人生に理想をもたないで
子どもにいったい   どんな夢が語れるというのか

私が先生になったとき 自分が仕事に誇りをもたないで
どうして子どもたちに 胸を張れと言えるのか

私が先生になったとき 自分が輪の外にいて
どうして子どもたちに 仲よくしろと言えるのか

私が先生になったとき 自己との闘いから目をそむけて
どうして子どもたちに 勇気を出せと言えるのか
1 名前 : ネリ 投稿日 : 2002年11月22日(金) 06時21分09秒
しばらくぶりで見ました。確かな根拠はないのですが、これは宮沢賢治作ではないと聞いた覚えがあります。確か、栃木の方の教育関係の何かに宮沢賢治をかたって載せたものだということでした。
 内容や文体からは、どう見たって賢治のものではないですよね。
 本当に誰か、いきさつを知りませんか。
2 名前 : ヒカル 投稿日 : 2002年12月13日(金) 10時47分33秒
ネリ様 
お返事ありがとうございました 私の上司が20年くらい前に沖縄の学校を視察した時に 賢治作としてそこに掲示されていたのだそうです
上司はそれ以来ずっと出展を探していたのだそうですが やはりわからないでいるのだという話から それではということで 情報を求めたという訳です
貴重な情報、ありがとうございました「これからは賢治らしいと誤った、あやふやな紹介をしないですむ」と報告した上司も申しておりました また「お礼を申しておいてくれよ」とも
本当にありがとうございました
3 名前 : イーハ 投稿日 : 2002年12月14日(土) 18時58分06秒
はじめまして。削除されそうなので、情報追加です。
問題の作品は、「私が先生になったとき」というタイトルで、宮沢賢治の作として、賢治没後50年前後から、全国の教組関係の機関紙やパンフに登場したようです。このいきさつについて、1983年に毎日新聞がとりあげたことがありました。学会事務局に資料はあるはず。
賢治作品ではないとされたものの、いまだに、いろいろなところで紹介されているようです。たまたま手元にある、1992年発刊の本では、作者不明となっています。ところで、ヒカルさんの「私が先生になったら」は、タイトルが微妙にちがうのですが、同様に内容のいいまわしもすこーし異なっています。別バージョンとして再普及しているのでしょうか。状況を知りたいものです。
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  5 賢治の血液型を教えてください
賢治の血液型を教えてください
0 名前 : zen 投稿日 : 2003年02月09日(日) 02時03分32秒
ばかばかしい質問だと思われるでしょうが、どなたか、ご存じの方がいらっしゃいましたら、賢治の血液型を教えてください。
1 名前 : リンパー 投稿日 : 2003年02月12日(水) 18時37分26秒
enさんこんにちは。
なかなかレスが付かないようなので、私も実際のところは知らないのですが、
書き込ませていただきます。

これまでに公表されている資料で、賢治の血液型に関するものは、
存在しないのではないかと思います。
当時、学校や保健所などでは血液型検査は行われていませんから、
もし検査をしていたとすれば、賢治がどこかの病院で治療を受けた際の
ことになります。カルテが残っていれば、調べればわかることですが、
おそらく残っていないでしょう。

となると、永久に答えは出ないということになってしまいますが、
結論から言えば、賢治は生前に血液型検査を受けたことは、一度も
なかったのではないかと、私は思います。

まず、昭和初期には、現在のように差し迫った必要もないのに一般人が
血液型を調べるという習慣はありませんでした。
賢治が生前に受けた手術としては、1914年に岩手病院で鼻の手術をしています
が、この時期には輸血も血液型検査もまだ日本では行われていません。
1930年頃であれば、輸血を要する大手術をする際には調べた可能性もありますが、
賢治が岩手県内で結核の治療を受けているかぎりにおいては、血液型検査を
行う理由はありません。
「眼にて云ふ」に描かれている1932年?の、歯肉からの大出血の際にも、
輸血は行われていませんし、従って血液型も調べていないはずです。

ご参考のために、血液型に関する簡単な年表を付けておきます。

1900年 オーストリアのランドシュタイナーが、ABO血液型を発見。
     しかし当初は、まったく注目されなかった。
1910頃 輸血事故と血液型が関係していることが認識されるようになり、
     欧米ではしだいに血液型検査が行われるようになる。
1919年 東大病院で、子宮筋腫の患者に対して日本初の輸血が行われた。
1927年 心理学者古川竹二が「血液型による氣質の研究」を発表。
     親戚や知人の血液型を調べた結果をもとにしていた。
1930年 浜口雄幸首相が東京駅でピストルで狙撃され、駆けつけた塩田広重
     東大教授が急いで血液型を調べ、輸血を行って一命を取り留めた。
     これが世間に広く輸血の効用を知らせるきっかけとなったが、
     当時は首相でさえふだん血液型を調べておくことはなかったのである。
2 名前 : zen 投稿日 : 2003年02月13日(木) 23時44分36秒
いい歳(36)をして、このような質問を掲示板に書き込むのは、匿名とはいえ恥ずかしくもありましたが、賢治の気質を知るための、ひとつの手がかりと思えたためですので、ご容赦下さい。(普段は、作家は作品で判断すれば充分と思っているのですが、こと賢治に関しては、何でも知りたくなってしまって...)

リンバーさん、丁寧にこたえて下さってありがとうございました。そのような時代背景は考えもしませんでした。どうりでいくら探してもわからないわけです。

お答えを読ませて頂く限り、個人で気軽に調べられることではなさそうですね。親類の方々の血液型から判断するとか、遺品から毛髪や汗のしみとかを見つけて精密な鑑定をするしかないのでしょう。どっかのテレビ番組で調べてくれないかな。花巻市で、調査してくれないかな。熱烈な賢治のファンクラブが、企画してくれないかな。
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