宮沢賢治学会イーハトーブセンター

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宮沢賢治掲示板 Q&A集(3)
   1  「四次元」という本
教えて下さい
0 名前 : キモト 投稿日 : 2004年04月22日(木) 16時54分47秒
 宮沢賢治研究について調べていましたところ、ここにたどりつきました。
 私は、ずっと宮沢賢治について気になって考えている者なのですが、研究機関紙で、「四次元」という本があるらしいという事を知りました。この本は、今でも発刊されているのでしょうか。定期購読することができるのでしょうか。
 すいませんが、どなたかご存知の方がおられましたら、教えて下さい。
 よろしくお願い致します。
1 名前 : ネリ 投稿日 : 2004年04月23日(金) 06時34分43秒
「四次元」は、すでに廃刊しています。佐藤寛さんの力で200号まで
刊行されましたが、昭和40年代に終了しました。
 現在は、国書刊行会から復刻が出版されています。図書館にはいっていることが有るかとも思います。
「四次元」刊行のデータは、確認しないまま書きましたので、あやふやな部分があることをお断りしておきます。
2 名前 : キモト 投稿日 : 2004年04月24日(土) 23時15分47秒
 ネリさん、お返事ありがとうございました。そんなに昔に刊行され、また廃刊になっていたとは知りませんでした。早速、頂いたデータを参考に、是非読んでみたいと思います。
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   2 宮沢賢治のお墓〔遺骨〕はどこにあるのですか?
教えて下さい
3 名前 : 匿名希望 投稿日 : 2004年05月18日(火) 17時01分57秒
宮沢賢治のお墓〔遺骨〕はどこにあるのですか?何かで国柱会に納められていると読んだのですが。教えてください。
4 名前 : ぴちゅこ 投稿日 : 2004年05月19日(水) 13時48分50秒
匿名希望さん ここはキモトさんの質問のスレッドですよ。
でも、いちおうお答えしますと……
このHPの「リンク」のページから、
→花巻市
→宮沢賢治ゆかりの地
と辿って、その11番「身照寺」をごらんなさい。
6 名前 : リンパー 投稿日 : 2004年05月20日(木) 13時47分22秒
匿名希望さん、こんにちは。
宮沢賢治の遺骨の一部は、身照寺のほかに、下根子桜(羅須地人協会跡)の
賢治詩碑の地下に、六尺立方のコンクリートの基礎をしつらえて、その内部に
法華経の経文、文圃堂版の宮澤賢治全集、詩碑建立の由来を記した文書とと
もに、納められているのだそうです。
毎年の賢治祭の時には、参加者が碑にお花を供えて手を合わせているのは、
このためなのでしょう。

ちなみに国柱会(妙宗大霊廟)には、妹トシの遺骨の一部が納められています。
トシの葬儀の後、そのままなら浄土真宗の安浄寺にすべて納骨されようとして
いたのを、賢治が強硬に主張して分骨したものです。
7 名前 : 匿名 投稿日 : 2004年05月24日(月) 16時26分28秒
どうもすみませんありがとうございました。
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   3 「青森挽歌 三」「津軽海峡」について
はじめまして♪
0 名前 : あさひ 投稿日 : 2004年05月27日(木) 12時56分29秒
はじめまして。あさひと申します。宮沢賢治の研究をしていて、疑問がいくつも出てきてしまいました。そこで質問させていただきたくて書き込むことにしました。
「春と修羅 補遺」に収められている“青森挽歌 三”と“津軽海峡”についてです。四点ほど質問させていただきたいと思います。
まず、キーワードとなる【通信】というものは賢治の亡き妹トシに対する想いがあふれたものとして解釈された状況にあります。(我々学生の間で。)
しかし、“津軽海峡”の中の「にせもののピンクの通信」というのは、何を表しているのでしょうか。それから、津軽海峡を渡りながらそこにベーリング海峡の話が出てきていますが、賢治はそこに行ったことがあるのでしょうか。
そうだとしても、そこに突然ベーリング海峡の話を出すのは何か賢治にとって意味があったのでしょうか。
そしてこの“津軽海峡”はもともと賢治が書き上げた時点のものと流れが違うようですが。解釈としては賢治の書いたものの本文の流れが変だとのことで編集の時に直されたらしいのですが、私にはそれでもおかしいように感じられます。
最後に“青森挽歌 三”は“青森挽歌”と本文の一部を共有しているようですが、なぜ、「三」なのでしょうか。「一」や「二」も存在していたのでしょうか。何か情報があれば教えていただきたいと思います。よろしくお願いします。
1 名前 : Black Pig 投稿日 : 2004年05月31日(月) 08時48分47秒
あさひさま。お尋ねの四点のうちのいくつかについて、とりあえずお答えしてみます。
賢治は「青森挽歌」などから読み取れるように、この北への旅行中になんとかして亡妹トシ子のあの世からの「通信」を受け取りたいと念願しつづけています。そのことは津軽海峡をわたる朝の連絡船上でも同様でした。詩「津軽海峡」の終わり近くの「私が眼をとぢるときは/にせものの通信が新しく空から来る」は、《目を閉じ、心を凝らして、トシ子からの通信を受けとろうとするが、海峡の朝の日光が空からふりかかり、顔にまともに当たって、閉じた瞼を透かして入り込んで来るので、視界は一面のピンク色。そこになにやら幻のように動くものが感じられはするが、それがトシ子からの「通信」だとは思えない》と、まあ、こんなふうに読めるのではないでしょうか。
「ベーリング海峡の氷は」うんぬんの記述は、当時の新聞(かなにか)で読んで知っていた気象状況を書いているわけで、賢治自身がベーリング海峡に行ったかどうかは、問題ではありません。農事や秋の作況に強い関心を持っていた賢治は、そうした気象通報には、つねに注意をしていたはずです。
本文についてですが、校本・新校本全集やその他の刊本に載っている、《初期全集での錯簡を正した形》は、賢治の遺した原稿に書かれている通りで、そこに編集者の勝手な判断や介入はなされていないと、理解しています。
2 名前 : Black Pig 投稿日 : 2004年05月31日(月) 09時25分31秒
あさひさま。「青森挽歌 三」についても、わたしの考えを述べてみましょう。
これは、『春と修羅』詩集印刷用原稿が清書される以前の草稿の一部とみられますが、「三」だけが遺されたのは、「一」や「二」、そしてあったかもしれない「四」「五」……などの内容はおおむね印刷用清書原稿の「青森挽歌」の中に生かされたのに、「三」には、生かされなかった大切なディテール(父の体験談その他)が含まれているために、これだけは賢治が破棄せずにとっておいた、と、そういったわけではないかと思います。
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   4 「銀河鉄道の夜」で、天の川の流れる方向について
教えて下さい。
0 名前 : 夕丹 投稿日 : 2004年05月22日(土) 20時04分45秒
はじめまして。夕丹と申します。
すこし気になる事があって、
宮沢賢治研究のサイトさんをめぐっていてここにたどり着きました。
「銀河鉄道の夜」で、天の川の流れる方向について気になっています。
ジョバンニが銀河鉄道に乗る前に丘から見上げた天の川は南から北へ
渡っているのに、乗った後の川の流れは北から南へ流れているところです。
「銀河鉄道の夜」は舞台が南欧とのことで、
乗った後の流れが北から南であることは疑問は無いと思うんですが、
乗る前の川の流れはおかしいような気がします。
天文に詳しくないのでなんとも言えないのですが、
単純に描き間違いなのか、それとも何か意味があるのか。
気になって仕方がないんです。それ関係の論文を探しています。
どなたかご存知の方があれば教えて下さい。
初訪で長文申し訳ありません。
1 名前 : ぴちゅこ 投稿日 : 2004年05月31日(月) 10時48分49秒
夕丹さま
銀河鉄道の列車が北から南に走るのに。天気輪の丘に登る途中のところで「天の川がしらしらと南から北へ亘って」とあるのは、どういうことかとのご疑問、ごもっともです。しかし、これを単に言葉(観念)として対比するのでなく、その場の状況・情景を思い浮かべながら読んでみますと、ここはこれでいいという気もしてきます。「天気輪の柱」の章は、こう書き出されています。
「牧場のうしろはゆるい丘になって、その黒い平らな頂上は、北の大熊星の下に、ぼんやりふだんよりも低く連って見えました。」
その頂上を目指して進んでいくジョバンニは、丘の南斜面を北に向かって登っているわけです。そして林がつき、空ががらんとひらけて、南斜面にいる彼が《ふり返って》その空をはるばると見渡すとき、銀河は、南の地平から立ち上がって、自分の頭上を越え、背後の山頂の方へ連なっていると見えるでしょう。そのあと、またジョバンニは頂上へ向って登りはじめます。頂上で彼が乗った汽車は今度は天球上の銀河に沿って、ひたすら南へ南へと走る、と、こんなふうに考えるのはどうでしょうか。
2 名前 : 夕丹 投稿日 : 2004年06月01日(火) 20時26分53秒
ぴちゅこ 様

レスありがとうございます。お陰さまで謎が解けました。
ジョバンニが《ふり返って》いるということ。全然頭になかったです。
そうですね、ふり返らなければジョバンニがまちの灯を眺めることは出来ませんもんね。
南の地平線が出入り口のように書いてあるところも読み飛ばしていました。
ぴちゅこ様の丁寧なご指摘を頭に入れながらもう一度読み返すと、
今まで何を気にしていたのか。
言葉の相反にばかり囚われてお恥ずかしいです。
すっかりもやもやがはれました。本当にありがとうございました!
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  5 さいとう そうじろうと言う人の事 
さいとう そうじろう
0 名前 : 前畑 貴子 投稿日 : 2003年03月28日(金) 23時32分27秒
雨にも負けずのモデルとして賢治が尊敬した、
さいとう そうじろうと言う人の事を
調べています。

ご存知の方がいらっしゃいましたら
メールをいただけないでしょうか?

どうぞよろしくお願いいたします。
1 名前 : ネリ 投稿日 : 2003年04月13日(日) 07時52分41秒
少しだけ書きます。
 「さいとうそうじろう」は、「斎藤宗二郎」です。「雨ニモマケズ」のモデルということは、眉唾だと思いますが、賢治と深い交流があったキリスト者です。内村鑑三の影響を受けています。花巻で、小学校の先生をしていましたが、キリスト教教育をしたためということで休職させられ、以後書籍雑誌商店をし、学校等への花壇作りの奉仕をした人です。賢治とは、花巻農学校時代を中心に交友を結びます。
大正一五年に上京、のち内村鑑三全集の編集実務などを努めます。内村の流れをくむキリスト者として、昭和四三年九二才で没しました。
 賢治との交友については、照井謹二郎「斎藤宗二郎と宮沢賢治の交友」(昭和62・3)がありますが、斎藤の日記から賢治関係の箇所を正確に抜き出した、栗原敦編「宮沢賢治周辺資料−『二荊自叙伝』(斎藤宗二郎自叙伝)による」のほうがよいと思います。
 これは、日本文学研究資料新集というシリーズの『宮沢賢治 童話の宇宙』に収められています。発行元の有精堂が廃業してしまったので、入手しにくいと思います。宮沢賢治イーハトーブ館の文献コピーサービスをりようすると簡単に読めます。
2 名前 : dahskodah 投稿日 : 2004年10月17日(日) 00時38分24秒
10月16日朝日新聞にこの方の自叙伝出版の記事が出ていました。
4 名前 : Mauve Pig 投稿日 : 2004年10月17日(日) 04時00分20秒
斎藤宗二郎(宗次郎)については、一般には「花巻非戦論」事件の主人公として有名です。
《それでも東北・花巻在住の内村先生傾倒者の斎藤宗次郎なる人が、日露戦争の真っ只中で兵役拒否をしようとして、あわてた内村先生がこれを止めに行った話がある。私は戦争中、極端な反戦論者になって行くのだが、この内村先生の行動が卑怯に見えて残念であったのを覚えている。ちなみにこの斎藤宗次郎という人は生涯熱心なクリスチャンであったが、宮沢賢治に非常に影響を与えた人と言われている。》
これは http://www.d-b.ne.jp/wahaha/kyokai/past-shuhou/shu2003.03.htm
からの引用です。
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